個人のイノベーションという観点から言えば、実はこの五十年間で最も大きな変化は、教育のレベルにおいて現れました。かつては学校教育の修了時が学習の終了時であり、学業を修めた者は学校と縁がなくなるというのが常識でした。ところが現在では、学校教育の終了時こそ、真の意味での学習の開始時期を指し示しているのです。
『ドラッカーの遺言』

主宰者より

どうも、馬場祐平です。

僕なんぞがドラッカーを引用するまでもなく、「教育」や「学習」が根本的な変化を遂げているのは誰もが感じている。でも、それが具体的にどのような変化で、どう対応すべきかをわかっている人はいるのだろうか。僕は、分かったような顔で語る人を見るたび、疑わしく思ってきた。

2013年の後半、ASEAN全10ヶ国を巡る旅の途中、僕はミャンマーという国に立ち寄り、一ヶ月ほど滞在した。上澄みを掬い取るような旅でしかないが、それでも学ぶことは多かった。

ミャンマーは、かつてはアジアで有数の繁栄した国だった。が、その後の独裁政権と長引く内戦とによって国民の生活は荒廃を極めていく。その結果、ミャンマーは国連により「最貧国」と指定されるまでに至った。しかし、近年、アウン・サン・スー・チーを中心に民主化が進められ、大きな変化を遂げている。そのことはテレビや新聞を通して多くの日本人が知るところである。

とりわけ経済の変化は著しい。投資家の「最後のフロンティア」として世界中の注目を集めた結果、地価は跳ね上がり、現地には土地成金のごとき富裕層が出現した。僕が見たところ、このチャンスを逃すまいと、日本からも官民を問わず大勢の人々が押しかけている。一方で、ミャンマーの庶民は今のところその恩恵をほとんど受けていない。ミャンマーのにぎやかな中心都市、ヤンゴンを貫く川の向こう岸に渡れば、原始的な生活を送っている庶民の暮らしぶりを垣間見ることができる(こんな感じ)

ミャンマーの人々に何が必要かといえば、教育だろう。アウン・サン・スー・チーもそう語っていた。それも、僕が思うに、ミャンマーの人々に必要なのは、いま日本では批難されてばかりの基本的な教育だ。僕の知る限り、我が国の教育は戦後すぐの頃から一貫して批判のやり玉に挙げられてきた。日本の教育が、日本人によって手放しで賞賛された時代が果たしてあっただろうか?

彼の地に移り住んで二十年になる日本人の年配の方に話を聞く機会があった。彼によれば、ミャンマーにも義務教育はあり、学校もそこそこ整備されているのだが、親が学校に行かせようとしないのだそうだ。親自身が学校に通っていないことが多く、学校に行くことの意味や価値をわかっていない。加えて、独裁者に都合のいいように制度が幾度も改変されてきたことで、教育に対して不信や嫌悪感を抱く人が少なくないのだという。

僕のように、はじめて日本を長期的に離れた日本人が感じるのは、自分が生まれ育った時代や場所がどれほど恵まれていたのかという驚きだ。ひいては、自分がどれだけ豊かな可能性を持っているのかに思いが及ぶ。自然と、もっと頑張らなきゃな、という気持ちがこみ上げてくる。世界には学校に通うことすらできない人が未だたくさんいるのだ。それに比べたら、日本人の僕は……。

意欲と、インターネットと、パスポートがあれば、今どきの日本人は、世界のあらゆる場所で、どんなことにでも挑戦できる。端的に言って、僕らは自由なのだ。もちろん、その自由を活かすための努力は欠かせないにせよ、それを楽しむマインドを持っている人にとって、努力は苦労ではなく喜びである。

「最後のフロンティア」と呼ばれるミャンマーは未来への希望に沸いている。その活気を、僕は羨ましく感じることもある。でも、すこし落ち着いて考えてみれば、それは日本という国でも過去に起こったことであり、若者が思春期を経験するように、若い国が必ず辿る通過点に過ぎない。だとすれば、そのような時期をすでに経た日本の進路は、どのようなものなのだろう? つまり、成熟した国家としての姿は、ひいては、その一員である僕や、僕よりも若い人たちの生き方は、どのようなものなのだろう? 二十代の終わりに旅をしている間じゅう、僕はそのような自問自答を繰り返していた。

ミャンマーに必要なものが日本的な教育だとすれば、いま変化を遂げている日本に必要なものはなんだろうか。最初に述べた通り、そういうことをしたり顔で語る人のことを僕は信用できない。それでも、仮説を立てないわけにはいかない。なぜなら、それが未来を真摯に考えるということだから。人類は、仮説の構築と、実験による検証を繰り返すことで、ここまで進んできたのだ。その末裔の一人として、僭越ながら、胸に一抹の不安を抱きながら、僕も旗印としての仮説を掲げることにした。

これからの日本に必要なのはCrazy Learnersだ。

「Crazy Learnersとは何か」という問いに答えるのは難しい。というのも、Crazy Learnersの活動が、実践を通してこの問いに答えようとするものだからだ。Crazy Learnersは仮説であり、プラトンが言うところの「イデア」のようなものだ。それを目で見ることはできないし、これだと具体的に言い表すこともできない。せいぜいできるのは「こういう生き方はCrazy Learnersなのではないか」と感じることであり、その生き方をロールモデルとして参考にするくらいのものだ。

それでも、それを一言で表現するとすれば、いまの僕はこのように答える。それは「自由を楽しむための強さを持つ人だ」と。

Crazy Learnersはそうした「強さ」を身につけるために何が必要なのかを考え、一人ひとりが自らの人生に活かしていくムーブメントでありたい。一人ひとりの生き方が違うように、Crazy Learnersの現れ方は人の数だけあるし、こうすればCrazy Leanersになれるという一律の方法はありえない(それじゃロボット製作だ)。でも、Crazy Learnersという仮説を信じて、そのための「強さ」を身につけて生きようと懸命に努力して歩む一筋の道は、そこに確かにある。そして、その道を歩むためのヒントのようなものなら、今の僕には示すことができるような気がする。

「自由を楽しむための強さ」を失った時、無力感から人の心には怨嗟が生まれる。それがどのような惨禍を招くことになったのかを、僕らの父祖はいやというほど味わったのではなかったか。彼らが表舞台から去りつつある現在、この国は今またそうした惨禍を招くか否かの岐路に立っているようにすら感じられる。僕らにできるのはなにか。一人ひとりが己に負けないこと。それだけではないだろうか。なぜ自分が自分であるのかの不思議は、誰にも解くことができない。でも、この時代、この場所に生まれた自分の運命を引き受け、そこに現れる物語の役柄を誠実に演じ抜こうとすることなら、自分の意志で成しうる。それが己に負けずに生きることであり、畢竟、自由に生きることでもあるのではないだろうか。

十代の終わりに「早稲田への道」という文章をインターネット上に書いた時から、僕の心には「己に打ち克て」という言葉が宿っていた。それ以降、自分の声や文章を通して、たくさんの人に幾度となく語りながら、おそらく僕は、その言葉を自分に言い聞かせてきた。そのおかげで、今の僕がある。それを三十歳になって再び言わんとすると、このような形を取ることになった。あの頃、こんなことをしているなんて想像できなかった。そう、よくも悪くも、想像できないことが人生には起こり続ける。時にはしんどいこともあるさ。でも、波瀾万丈があるからこそ物語がおもしろいように、未来がわからないからこそ生きる意味も感じられるんだ。

人生は不条理だ。世界はどうしようもなく悲惨だ。でも、そんなことをいちいち言挙げしていてもつまらない。それよりも、そんな不条理で悲惨な人生や世界においても、楽しく生きていくための一歩を踏み出した方が、よっぽどおもしろい。その一歩は、ささやかなものでいい。だって、どんな天才の一生も、波乱万丈な人生でも、毎日の生活に目を凝らしてみれば、ささやかなことの積み重ねでしょう? 世界が変わるのは、いつだって、いつだって、いつだって、自分が世界を変えられると本気で信じた人が、具体的でささやかな一歩を踏み出した時にはじまっているのだ。

2014年3月

Crazy Learners 主宰者
馬場 祐平


馬場祐平 プロフィール

  • 1983年12月生まれ。
  • (私立)中学中退、(公立)高校中退の後、大検を経て、早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。
  • 在学中、「早稲田への道」と題した一連の文章を2ちゃんねるに投稿。
  • 2007年、大学四年次末にオンラインの私塾「道塾」を開く(2011年「道伴舎」へ名称変更)。
  • 2013年3月、道伴舎(旧・道塾)を閉塾。延べ1000名超が在籍。
  • 2014年3月、「Crazy Learners」をはじめる。
  • 2015年4月より、センセイプレイス株式会社の共同創業者兼CTOを務める傍ら、東京大学大学院教育学研究科修士課程に在籍し、教育研究を行う。
  • 著書 『受験はゲーム』(2009) 『学欲』(2012) 『独学宣言』(2013)
  • 現行ブログ『30ruby記』
  •  メインブログ『午後2時のビール』